アルバムと雑誌

古いものが増えていく。中古のレコード屋や本屋があると入りたくなってしまい、何か買ってしまう。基本的に、レコード屋ではいわゆる音楽のレコードよりも、「その他」のコーナーにある音楽ではないレコードを探す傾向にあるが、久々に音楽のレコードを買った。

SP盤のアルバム×2。。トスカニーニ指揮・ニューヨークフィルの田園交響曲。それからトスカニーニ指揮の序曲集みたいなやつ(ロッシーニヴェルディなど)。特にトスカニーニが好きというわけでも、ベートーヴェンが好きというわけでもない。そういえばうちにはSP盤の「アルバム」が無かったなと思い買った。買ったはいいが、重くて、歩いて持って帰るのにはひと苦労だった(しかも暑いし)。SP盤はそもそも重い。それが何枚もあってしかもアルバムケース入りならそれは重いわけだが、あんまり考えてなかった(可搬性の点で今のメディアってすごいわ…と改めて思ったりもする)

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当時のアルバムはまさにアルバムのような形態だった。

 

ちなみに現在SP用の針が切れており、まだ聴いていない。通販で新しい針買ったので届いたら聴いてみよう。

 

 それから最近『科學畫報』という大正時代の雑誌を買った。これはその名の通り科学雑誌の一種で、創刊は大正12年。発行は新光社という東京の出版社である(新光社は1935年に誠文堂に吸収合併され、誠文堂新光社となった)。編集者は、現在でも続く雑誌『子供の科学』(誠文堂新光社)を創刊した科学ジャーナリスト原田三夫である。

 科学史家の高田誠二氏が「科学雑誌の戦前と戦後」の中で書いているが、幅広い雑誌に寄稿していた寺田寅彦が一度も寄稿しなかった科学雑誌が、この原田三夫の関わった雑誌群であったという*1。『科學畫報』もその一つだ。

 さて、その『科學畫報』の第三巻第三號(1924年、大正13年)を買った。個別の記事も、読む人によっては面白いのだと思うが、私にとっては広告や新発明品紹介のコーナーが面白かった。1920年代は濱地常康の関わった『ラヂオ』(1922)にはじまり、『無線と実験』(1924)、『ラヂオの日本』(1925)などラジオ雑誌がいくつも創刊され、また1925年にはラジオ放送(放送無線電話と呼ばれた)も開始されるなど、ラジオは舶来のホットなものだったのだろう。この雑誌でもとにかく無線の広告が多く(ほとんどと言ってもよい)、素人無線、アマチュア、という文字が目立つ。濱地の新著の広告も載っていた。

 下の写真は「無線電話の應用は疾驅する」というコピーを掲げる石川無線電話研究所の広告の一部。無線装置を取り付けた自動車の写真を使っており、「走り乍ら何處とでも通話が出来ます」と書いてある。自動車電話の先駆という感じだろうか?それに、移動しながらどことでも繋がれるという意味では後の様々なポータブルメディアの広告で繰り返し登場する文句ととれなくもない(強引か?)。

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         「無線電話の應用(応用)は疾驅(疾駆)する」

 

 他に面白かったのは「最新 珍奇づくし」というコーナー。海外の最新の(?)珍しい発明品を紹介するコーナーで、鉛筆を仕込んだ指輪や、電気モーターで自動的に卵を洗って殺菌する機械などが写真付きで載っている。その中に、「内證で聞ける蓄音機」というのがあって、何かと思って写真を見ると、お店で、イヤホンのようなものを耳にあてて男性たちがレコードを聞いている様子。聴診器のようなゴム管のついた蓄音機はすでに開発されていたはずだが、この写真の装置はどのあたりが新しいのだろうか。その点はあまり良くわからなかったものの、説明文には、蓄音機屋に行ったときに義太夫、八木節、ベートーヴェンなどがあっちこっちで鳴っていて買う気にならないが、これがあれば大丈夫という店での使い方、そして下宿屋でも隣の部屋に遠慮せずに聞けるという自宅での使い方が書いてあって興味深かった。たしかに下宿で蓄音機は…。隣の部屋の蓄音機問題とかまとめた資料とか無いだろうか?(ラジオについての荷風の感想は『断腸亭日乗』にあったが蓄音機については何か言ってたか、忘れた。)

 古い雑誌や物は、(今から見れば)変なもの、あるいは逆に、新しいと思っていた物事と似たようなを物事を見せてくれたりもするので、今後も何か書こう。

*1:ちなみに高田氏は、寺田と原田の間に接触がなかった理由として「書きぶり」「ジャーナリスト観」の違いを挙げている。